平家物語を読む35

巻第二 蘇武*1

 清盛公が哀れむ程であったから、京中の身分の高い者も低い者も、老いた者も若い者も、皆が哀れんで、この鬼界が島の流人の歌を口ずさまない者はいなかった。それにしても千本まで作った卒塔婆であるので、それ程少ない訳ではないとはいえ、薩摩の沖からはるばると都まで伝わってきたとは不思議な事である。余りにも思いつめた事には、このような効果が現れるのであろうか。
 はるか昔、前漢の頃、第七代皇帝・武帝は北方の遊牧民族匈奴を攻めるのに、初めは李陵を大将軍にして三十万騎を差し向けたが、漢の軍勢は弱く、匈奴の軍勢が強かったため、官軍は皆、討ち滅ぼされた。その上、大将軍・李陵は匈奴に捕らわれてしまった。次に蘇武を大将軍にして五十万騎を差し向けた。それでもなお漢の軍勢は弱く、匈奴の軍勢が強かったため、官軍は皆、滅んだ。この時、六千人以上の兵士が生け捕られた。その中から、大将軍・蘇武を始めとする主だった六百三十人以上の兵士が、その片足を切り落され追い払われた。即座に死ぬ者もあり、時をおいて死ぬ者もあった。だが、蘇武は死ななかった。片足のない体のまま、山に登っては木の実を拾い、春は沢の根芹を摘み、秋は田に散っている稲の穂を拾うなどして、いつ消えてもおかしくない露のような命をつないだ。
 田に数え切れない程いた雁は、蘇武に慣れてもう恐れる事はなかった。蘇武は、これらは皆、私の故郷へ寄るのだろうと思い、余りの懐かしさに思う事を一筆書いた。「皆で行って、これを武帝に渡してくれ」と言って、その手紙を一羽の雁の翼に結び付けて放った。雁とは秋は必ず北国から都へ来るものであるのである。上林苑*2で管弦の催しがあった時、武帝の子である昭帝が夕暮れの空を見上げると、何とはなしに悲しげな様子で雁の群れが渡って行く。と、その中の一羽が下りてきて、翼に結び付けられた手紙を食いちぎって落とした。官人がこれを拾い、昭帝に渡した。開いてみるとそこには「昔は岩屋の洞窟に閉じ込められ、愁い嘆いて三度の春を過ごした。今は荒れた広い田の畝に追い払われ、北方の蛮地で片足の身となっている。たとえ屍は北方の地に散らすとしても、魂は再び君主の側に戻るだろう」と、書いてあった。この時から、手紙の事を雁書とも言うようになり、雁札とも呼ばれるようになった。「ああなんと哀れな事だ、蘇武の名誉の筆跡ではないか。いまだ北方に生きているとは」と、帝は李広という将軍に命じて百万騎を送った。今度は漢の軍勢が強く、匈奴の軍勢が敗れた。味方が戦いに勝ったと聞いて、蘇武は原野の中から這い出て「私が、あの蘇武である」と名乗った。片足は切られながらも、十九年の年月を経て、蘇武は輿に担がれて故郷へ帰った。蘇武は十六歳の時、北方の匈奴国へ向かった際に帝から旗を授かった。何とかして隠し通したのだろう、その旗を身から離さずに持っていた。今、取り出して帝の前に出したところ、帝も臣下の者もこの上なく感嘆した。君主のために大きな功績を成したので、蘇武は大国をたくさん授かり、その上、諸属国を司る官を叙されたと聞く。
 李陵は匈奴国にとどまって、結局帰らなかった。何とかして漢朝へ帰りたいと嘆いたけれど、匈奴の王はこれを許さず叶わなかった。漢の帝はこの事を知らないため、君主に対して不忠な者であると、既に死んでいる李陵の両親の死骸を掘り起こして討たせた。その他にも、李陵の親族である兄・弟・妻子に罰を与えた。李陵はこれを伝え聞いて、深く恨みを抱いた。そうであってもなお故郷が恋しく、君主に対して不忠ではない事を一巻の書に書いて送ったところ、帝は「それは気の毒な事だった」と、父母の死骸を掘り出して討たせた事を後悔された。
 漢の蘇武は手紙を雁の翼に付けて故郷へ送り、本朝の康頼は浪を頼りに歌を故郷に伝えた。蘇武は一筆の慰み書き、康頼は二首の歌、蘇武は上代、康頼は末代、匈奴国、鬼界が島、国は異なり時代も違ってはいるが、風情は同じでめったにない珍しい事であった。

―巻第二 終り―

巻第二の月日

*1:そぶ

*2:武帝長安の西に築いた庭園