平家物語を読む34

巻第二 卒塔婆*1

 少将・成経と康頼入道は、毎日三所権現へ参り、仏前で終夜祈願する事もあった。ある時、終夜祈願のため一晩中、当世風の歌を歌った。その明け方、康頼はほんの少しまどろんだ時に夢を見た。沖から現れた白い帆をかけた小舟が一艘、岸に着き、舟の中から紅の袴を着た女房たち二、三十人が出てきて、鼓を打ち、声をそろえて
   どんなに多くの御仏の誓願よりも千手観音の誓いが最も頼りになる 枯れた草木もたちまちに花が咲き実がなるということだから
と三回歌って、消えるようにいなくなった。夢から覚めて、康頼は不思議な思いで「これは竜神*2の化身と思われます。三所権現のうちの一つ、結宮というのは、本地が千手観音でいらっしゃいます。竜神は千手観音の従者である二十八部衆の一つであり、そのためにお聞き入れくださったとは頼もしい事です」と言った。またある夜、二人で終夜祈願をしている時、まどろんで二人は同じ夢を見た。沖から吹く風が、二人の袂に木の葉を二枚、吹き付ける。何とはなしに手に取って見ると、熊野三所権現の神木・南木*3の葉である。その二枚の南木の葉は虫に食われ、その穴が文字の形をなし、一首の歌となっていた。
   千はやぶる神にいのりのしるければなどか都に帰らざるべき*4
 康頼は故郷が恋しく、思い余った末の手段として千本の卒塔婆を作り、第一番目の梵字をまず書いて、年号月日・俗称・実名と二首の歌を書いた。
   薩摩潟おきのこじまに我ありとおやにはつげよ八重の潮風*5
   思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほ古郷はこひしきものを*6
これを海辺に持って行き、「南無帰命頂礼、梵天・帝釈、四天王、堅牢地神、王城鎮守の諸大明神、特に熊野権現厳島大明神、せめて一本だけでも都へ届けて下さい」と言って、沖に立つ白波が寄せては返る度に、海に浮かべた。卒塔婆を作り出す度に海に入り、その日数が重なり、卒塔婆の数もずいぶんになった。よって、その康頼の一念が順風となって吹いたのだろうか、それとも神仏が送って下さったのだろうか、千本の卒塔婆のうちの一本が安芸国厳島大明神の前の渚に打ち上げられた。ここに、適当なついででもあったらどうにかして鬼界が島へ渡って康頼の様子を聞きたいと思い、西国修行に出ていた康頼に縁のある僧がいた。まず厳島へ寄ったところ、宮人と思われる狩衣を着た者が一人出てきた。僧が何とはなしに「仏菩薩が智慧の光を和らげ、煩悩の塵の世であるこの世に現れて利益を垂れるとは言っても、どのような因縁を持ってここの神は漫々たる大海に住む魚と縁を結んだのでしょうか」と聞くと、宮人は「ここの祭神は、娑羯羅竜王*7の第三の姫君で、ここの本地は大日如来です」と答えた。それから、この厳島に神仏が衆生を救うために来臨して、衆生を煩悩の苦しみから救って利益を与える今に至るまでの、奥の深い殊勝な事を話し始めた。厳島の八社の御殿は海のほとりに甍を並べているため、塩の満ち引きがあり、月が美しい。塩が満ちてくると、大鳥居と朱色に塗った社殿の垣根は瑠璃のように輝く。塩が引いた時は、夏の夜といえども前の白洲に霜が下りたようになるそうだ。僧はそれを聞いてからますます尊く思えて、神仏に対して経を読み法文を唱えていると、だんだん日が暮れて月が顔を出し、塩が満ち始めた。どこからともなく漂ってきた藻屑の中に卒塔婆の姿が見えるので、何とはなしに手に取って見ると「おきのこじまに我あり」と書かれている。文字は彫って刻み付けられていたので、波に洗われる事もなく、鮮明に見えた。「なんと不思議な事だ」とこれを取って背中の箱に挿し、僧は都へ戻って康頼の老母と妻子が忍び住んでいる一条の北の紫野*8へと届けた。これを見て母と妻子は「この卒塔婆は、大陸の方へ流れて行かずに何だってここまで届いて、今さら思い煩わせるのでしょう」と言って悲しんだ。この事がはるか法皇の耳にまで達した。法皇はこの卒塔婆を見て「何といたわしく気の毒な事だ。ということは今まで、この者たちは生き永らえているという事か」と言って、涙を流されたというからもったいない。その後、この卒塔婆を重盛公のもとへ送ったところ、重盛公は父の清盛公にこれを見せた。柿本人麻呂は島に隠れていく船を思い*9山部赤人は葦辺の鶴を眺めた*10。住吉の明神は社殿の片削ぎの千木を思い*11、三輪の明神は杉の立つ門を指した*12。昔、素溘鳴尊*13が初めて三十一文字の和歌を詠んで以来、もろもろの神・仏も和歌を持ってあらゆる思いを述べてきたものだ。清盛公も岩や木のように非情な訳ではないから、その卒塔婆を見て、さすがに気の毒な思いがした。

*1:そとばながし

*2:八部衆の一つで、海中に住み雨水と司り仏法の守護神とされる

*3:なぎ:マキ科の常緑樹で、その葉は悪鬼を除き災難を防ぐとされた

*4:お前たちの神への祈願には真心がこもっている上は、どうして都へ帰れない事があろうか

*5:薩摩の遥か沖の小島に、私がまだ生きていると親に知らせておくれ、八重の潮風よ

*6:思いやってほしい、ほんの短い旅の間でも故郷は恋しいものであるのに、こうしていつ帰れるかもわからない私の身の辛さを

*7:しゃかつら:海中に住み雨を司る

*8:京都市北区船岡山付近

*9:古今集の「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」をふまえる

*10:万葉集の「和歌の浦に潮みち来ればかたをなみ葦べをさしてたづ鳴きわたる」)をふまえる

*11:新古今集住吉明神の歌として「夜やさむき衣やうすきかたそぎのゆきあひのまより霜や置くらむ」が載る

*12:古今集の「我が庵は三輪の山もと恋しくは訪らひ来ませ杉立てる門」をふまえる

*13:すさのおのみこと