巻第二 山門滅亡
その後、延暦寺はますます荒れ果てて、十二禅衆*1以外に、比叡山に住みとどまっている僧はほとんどいなかった。谷ごとに伝わる仏説の講義や説法はすたれて、僧堂ごとに行われていた修行も絶えた。学ぼうとする僧がいないので道場の窓は閉じ、座禅を行う者がないので座禅堂は閑散としていた。釈迦の教説による説法が行われなくなり、三諦即是の天台の教理*2も衰えた。三百五十年以上に及ぶ天台仏教の伝統を守る者もなく、絶え間なく焚かれていた香煙も絶えてしまった。三重に建てられた堂塔は青空にそびえ、その屋根は高く張り出し、支える四面の垂木が白い霧の間にかかるように見えた。だが今では、仏への供養をする者がなく仏像は雨を浴び、峰の嵐が吹き渡るだけである。軒のすき間からこぼれる入る夜の月の明かりが、蓮華座の飾りの役目をしている。末代の俗世間では、天竺・震旦*3・日本の三国に伝わる仏法が次第に衰えている。遠く天竺の仏跡を訪れてみれば、仏教最初の寺院・竹林精舎*4、祇園精舎も、この頃では虎狼狐の住処となって、残るのはその土台のみだ。竹林園にある白露池の水はなくなり、草ばかりが茂っている。退凡・下乗の二つの卒塔婆*5も苔むして傾いた。天台山*6・五台山*7・白馬寺*8・玉泉寺*9も、住む僧がいないため今では荒れ果てて、大乗の経文も小乗の経文も箱の底で朽ちている。わが国でも、奈良の七大寺*10が荒れ果て、八宗*11、禅も絶えた。嵯峨の愛宕権現・高尾の神護寺も昔は堂塔を並べていたが、一夜のうちに荒れ、天狗の住処と成り果ててしまった。そうであるから、あれ程まで尊かった天台の仏法も、治承の今になって滅びるのだろう。心ある人々は嘆き悲しまずにはいられない。比叡山を離れた僧が、宿所の柱に歌を一首書いていた。
いのこりし我たつ杣のひきかへて人なきみねとなりやはてなむ*12
これは、比叡山に堂を興した伝教大師*13が、この上なく優れた仏たちの加護を祈り続けた事を思い出して読んだものであろう。とても情け深い歌である。四月は薬師如来が衆生を救い出すために山王権現となって日本に跡を垂れた月であるのに、供え物を捧げる者もいない。八日は薬師如来の日であったが、祈る声も聞こえなかった。朱の玉垣は古びて、残っているのはしめ縄のみだった。