文章修業

 約三年前、半年間ほど文章の添削を受けたことがある。その頃の私は、何かを書いてみてはその拙さに「もう書くのはやめよう」としばらく書くことから離れ、また戻ってくるということを繰り返していた。そのくせ変な自信だけはあった。結局、書くことに見切りをつけようと英語翻訳の勉強を始めた。それは面白かったが、つまずきを感じたのは英語ではなく日本語の方だった。作者が英語で丹念に書き表しているものを、それに見合うだけの日本語で表現することができない。いずれにしても、自分には日本語の文章の勉強が必要なのだと知った。
 検索して専門家の文章添削講座に申し込みをした。まず何か一つ書いて提出し、それを見てから方針を決めていくとのことだった。初めて他人に見てもらう文章である。私は肩に思いっきり力を入れて、日常のとある風景を三枚ほどの文章にした。ある朝、ベランダの植木鉢に現われた小さな雨蛙をとっかかりに、集合住宅で育ったため庭という概念が分からずに他人の家の敷地に入って怒られた子供の頃の経験を書き、そのような境界に縛られない雨蛙の行動との対照を示したものである。何度も推敲を重ねて、自分でも悪くないと思えるようなものができた。下手だと思って近頃では文章を書かずにいたが、意外と書けるではないか、などと思った。
 しばらくして、添削された文章が丁寧な説明文とともに送られてきた。どきどきしながら目を通す。散々な結果だった。主題そのものまで直されたかのようで、まるで私の文章でないような気がした。得意になって使った文学的表現はばっさりと切り落とされ、少々無理をした結論には容赦なく?の文字があった。次回こそは、と題材を選んで取り組んだが、やはり散々だった。その次も同様だった。
 残すところ、あと二回になった。でも、もうやる気がなくなりかけていた。ひどくみじめな気持ちだった。どんなに頑張って書いても否定されるのだ、この人に私の文章が分かるものか、と思いさえもした。反発心ばかりが頭をもたげ、このままやめてしまおうかと思った。
 辛い時期だった。何も書けずに時間ばかりが過ぎた。これまでどこかにあった根拠のない自信は消えていた。自分の文章は本当に拙いのだと認めるしかなかった。それでも締め切り間際になって、私は重い腰を上げた。書いたのは子供の頃の恥ずかしい思い出。けんかした友人の靴を隠したこと。その事件をできるだけそのまま、事実通りに書く努力をした。
 実は、講座では文章の他に、課題として動作をそのまま短文に書く練習があった。自分の思うように書いたものは駄目だったので、その練習の延長のつもりで書いたのだ。途中、当時の気まずい思いがよみがえってきたが、なんとか書き終えた。ひねりもなく面白くも何ともないと思ったが、長い間、心のすみに引っかかっていた出来事を書いたせいか、不思議とすっきりした気がした。また徹底的に直されるのだろう。でもあと一回だ、最後までやってみよう。そんな気持ちで、返信を待った。
 ところが、私の予想ははずれた。「正直、驚きました」とそこには、初めて評価の言葉があったのだ。細かいところは直されていたが、全体は私の文章だった。このときの嬉しさは今でも忘れない。やめないでよかった、と心から思った。
「事実を書く」とはこういうことなのか、と私はようやく理解した。文章どころか、物事に対するそれまでの自分の姿勢そのものが、疑わしいものに見えてきた。それまでの私の文章は、事実から目をそむけて表面ばかりを取り繕った中味のないものだと気付いたからだった(このあたりのことは以前、「思考と行動の間の溝」にも書いた)。その後、これまで添削されたものも読み返してみた。反発心しか生まなかったはずの言葉が、理解できる言葉に変わっていた。
 最後の回、お願いして少し長い文章を書いた。書いたのは、海へ釣りにいったときに出会った少年のこと。交わした会話から自分の気持ちまで、とにかく事実を忠実に書こうと努力した。戻ってきた文章はたくさん直されてはいたが、その言葉は素直に耳に入ってきた。連絡帳には「なかなか最後まで続く人はいないのです」との言葉があった。その言葉の重みをひしひしと感じた。
 書くことから離れられない人で、どこか自信はあるのに、それでいて壁にぶつかっていると感じる人は、一も二もなく専門家に見てもらうことを薦める。自分の精魂を込めて書いた文章だからこそ、他人の意見を聞くことには抵抗を感じるかもしれない。が、言葉はそもそも他人と意思疎通するために生まれたものであり、他人に分からずとも自分だけが分かればいいという文章など成り立たない。他人の意見を聞けるようになったとき、きっと一つの壁を越えられることを私は請け合う。


<9/30/2005 追記>
私が受講したのは、こちら「ことば・言葉・コトバ」の文章通信添削講座です。