平家物語を読む19

巻第二 座主流*1

 治承元年五月五日、天台宗の座主*2・明雲は宮中の法会や経典の講義に呼ばれる資格を剥奪された上に、使者の蔵人から、如意輪法の本尊*3の護持僧*4の役の返上を命ぜられた。そして検非違使庁の命令を伝える使者によって、今回、神輿を担いで内裏にやって来た延暦寺の僧たちが呼びたてられた。加賀国には座主・明雲の所領地があった。国司・師高がこれを廃止したため、その恨みをはらすために座主が僧たちを扇動して訴訟を起こさせたのだ、事は更なる被害を皇室にもたらすと、西光法師の父子は延暦寺側を落としいれようとして事実をねじ曲げて伝えた。法皇はそれを聞いて激怒なされ、「特に重い罰が与えられるようだ」と言う噂になった。明雲は法王の機嫌が悪いのを知って、座主の職印と宝蔵の鍵を返却し、座主をやめる旨を伝えた。同月十一日、鳥羽院の七の宮である覚快法親王天台座主になられた。この方は比叡山東塔の青蓮院の第四十八代天台座主であられた行玄殿の弟子であった。十二日、先の座主・明雲は職務を辞めさせられた上に、送られた二人の検非違使により水と火の使用を禁じられた。これにより、僧たちが又もや京に下りてくるとの噂が流れ、京中が再び騒がしくなった。
 同月十八日に、太政大臣以下の公卿十三人が内裏に列座し、先の座主・明雲の罪科についての合議が行われた。その当時はまだ左大弁宰相であったために末座にいた八条の中納言・長方卿が「法家*5の出す罪状の判定書によると、死罪から一等減じて遠流*6にするべきだとありますが、前の座主・明雲は天台系の顕教*7真言系の密教*8を兼ね修めて、心身を清浄に保って修行し戒律を堅く守っている上に、法華経高倉天皇に教授したり、菩薩になるための菩薩戒*9後白河法皇に与えたりもしています。このような御経の師、御戒の師が重罪に問われるとは、仏菩薩はどのようにご覧になるでしょうか。還俗・遠流に処するのを和らげて減罪するべきではないでしょうか」と歯に衣着せぬ物言いをすると、そこに集まっていた公卿は皆が「長方の言う事に同意する」と言い合った。が、法皇の憤りが並々ではなかったため、結局は遠流に決まった。清盛公も流罪の停止をお願いしようと法皇を訪ねたが、法皇は風邪をひかれたとの事で面会さえもかなわずに不本意のまま帰った。僧を罰する時の決まりで、明雲は僧の資格を剥奪され、還俗させられて、大納言大輔・藤井の松枝と言う俗名をつけられた。
 この明雲とは、村上天皇*10の第七の皇子で、具平親王から六代目の子孫に当たり、村上源氏の大納言・顕通卿の子であった。他に比肩する者もないほどの高徳な僧で、天下第一の高僧であったので、天皇にも臣下の者にも重んじられ、四天王寺((現在は大阪市天王寺区にある))・六勝寺*11の寺務総轄も行っていた。けれども陰陽寮の長官・安陪泰親は「それほどの知者の名が『明雲』であるとは合点がいかない。上には太陽と月が光を連ねていても、その下には雲がかかっているではないか」と言って非難した。仁安元年二月二十日に明雲は天台座主になり、同年の三月十五日には新任座主が根本中堂の本尊を拝礼する儀式が行われた。中堂の宝蔵を開くと、様々な宝の中に幅一尺ほどの箱があり、それは白い布で包まれていた。不淫戒を一生守る座主がその箱を開けて見ると、きはだで染めた紙に書かれた手紙が一巻入っていた。天台宗の開祖・最澄が未来の座主の名字を前もって書かれていたものである。自分の名があるところまで見た後は、それより先を見ずに元通りに巻いて片付けるのが習いであった。よって明雲もやはりそのようになさったのであろう。このように立派な人であったが、前世の宿業を免れる事はできなかったのは気の毒な事である。
 治承元年五月二十一日、流刑地伊豆国に決まった。人々は減罪についていろいろと話し合ったのだが、西光法師父子の事実をねじ曲げた報告のために、このような決定になったのだった。今日すぐに都を追い出されるべきだと言う事になり、検非違使庁の役人が比叡山東塔の青蓮院の里坊に向かった。明雲は泣く泣く里坊を出て、粟田神社の南谷・一切経谷にある延暦寺の別院に入った。延暦寺では「つまる所、我らの敵は西光法師父子以外の誰でもない」と、この親子の名字を書いた紙を根本中堂にいらっしゃる十二神将の筆頭である金毘羅大将の左足の下に踏ませ、「十二神将・七千夜叉よ、今すぐにでも西光父子の命を召し取ってください」とうめき叫んで呪詛したそうだ。話に聞くだけでも恐ろしい事である。
 同月二十三日に、明雲は一切経谷にある延暦寺の別院から流刑地伊豆国へ向かわれた。あれ程の重要な役職・座主であった人が、追い立ての検非違使庁の役人に蹴られるようにして先に行かされ、今日限りで都を出て逢坂の関より東方に行かなければならないとは、その心の内を思うと気の毒であった。逢坂の関から琵琶湖畔に出た辺りで、延暦寺の根本中堂の東にある二重の高楼が白く輝いているのを見て、もう二度と見る事はできないと明雲は袖を顔に押し当てて涙を流して悲しまれた。延暦寺には年功を積んだ老僧・徳の高い僧が多いのだが、その当時はまだ僧都であった今の最高位の僧侶・澄憲*12は明雲との別れを余りに名残惜しんだため、粟津*13まで明雲を送り、いつまでもそうしている訳にもいかないのでそこで暇を申し出て帰ったのだったが、その時、澄憲の志しが並々でない事を感じて、明雲は長年自己の心中に持ってきた一心三観*14を授けたのだった。この法は、釈迦がお授けになった教義で、波羅奈国*15の馬鳴比丘*16から竜樹菩薩*17へと、代々受け継がれてきたものであったが、今日の日の情けにと澄憲に授けられたのであった。我が国は粟粒を撒き散らしたような辺境の小国で、今は仏法が衰え濁り汚れた時代だと言いながら、この法を授かって泣きながら都へ戻った澄憲の心の内とは、とても尊いものであった。
 延暦寺では、僧たちが怒って評議を行った。「そもそも初代の義真和尚よりこのかた、天台座主が始まって五十五代に至るまで、流罪に処されたなど聞いた事がない。よくよくこの事の意味を考えてみよう。延暦の頃*18桓武天皇が平安の都を建て、伝教大師最澄比叡山に根本中堂を建立した。天台宗の教えを広めてからずっと、比叡山への女人の来往は禁じられており延暦寺には三千人の清僧が住んでいる。山頂では唯一無二の経典・法華経が読まれ、麓の山王七社では日毎に霊験が著しい。かの天竺の霊鷲山とは、マガダ国の首都・王舎城の東北にある釈迦の住処である。ここ日本の比叡山も、帝都の鬼門*19にそびえ立ち、鬼門から出入りする邪鬼から国家を鎮護する霊場である。代々の賢明な君主・家臣はここに仏を供養する壇や仏道修行の道場を置いた。いくら末代だからと言って、どうしてこの比叡山に汚点をつけられようか。辛い事だ」と叫ぶ程の見幕で、延暦寺の僧たちは皆が比叡山の東麓へ下って行った。

*1:ざすながし

*2:大寺の住職の公称

*3:宮中には延命・不動・如意輪の三壇の修法があり、山門は如意輪法の本尊を分担していた

*4:天皇の身体守護のための祈祷僧

*5:法律を専門とする明法道の家(坂上・中原)

*6:おんる:三流のうち最も重い流罪

*7:釈迦の教説をよりどころとする

*8:大日如来の教説に基づく

*9:菩薩となるための大乗の戒律

*10:第62代の天皇

*11:左京区岡崎にあった法勝寺・尊勝寺・成勝寺・延勝寺・最勝寺・円勝寺の六つの勅願寺

*12:ちょうけん

*13:大津市内、瀬戸田川河口部付近

*14:天台宗の観想法で、一切を空と観じ、仮と観じ、また空も仮も一なりと観ずる事

*15:はらないこく:インドのガンジス川流域にあった国で、釈迦が成道後に初めて教えを説いた鹿野苑がある

*16:めみようびく:釈迦の滅後の600年頃に活躍した仏教学者

*17:りゅうじゅ:馬鳴の弟子に師事した仏教家で、第二の仏陀と仰がれた

*18:782〜806

*19:東北