平家物語を読む18

巻第一 内裏炎上

 蔵人左少弁・藤原兼光を中心に、清涼殿の殿上の間では、すぐに前夜の事件についての公卿の評議が行われた。保安四年七月に神輿が京に入った時は、延暦寺の首長に言って赤山社*1に入れた。また保延四年四月に神輿が京に入った時は、祇園園感神院*2の僧官に言って祇園社に入れた。今回は保延の例に倣い、祇園の僧官・澄兼*3に言って、夕刻に神輿を祇園社に入れた。神輿に刺さった矢については下級の僧たちに抜かせた。延暦寺の僧たちが山王の神輿を掲げて警護役人の詰め所に来た事は永久元年から今の治承までに六回あり、毎回、武士を集めて防いできたけれど、神輿を矢で射たとは初めて聞く事だった。「霊神が怒ると、世間には災害があふれると言う*4。恐ろしい事だ」と人々は言い合った。
 同月十四日の夜半頃、また延暦寺の僧たちがはなはだ多く京に下りてくるとの噂が流れた。よって夜中に天皇は手輿を用意させて、後白河院の御所である法住寺殿へ向かわれた。中宮平徳子殿は御車に乗られて移動された。重盛殿は緊急のため、略服のままでその一行に加わった。重盛殿の長男である維盛殿は、束帯*5に警護のための矢を背負っていた。関白殿を始めに、太政大臣以下の公卿・殿上人たちは先を争って参上し、京中の身分の高い者も低い者も、宮廷の高官も下僚も、皆ががやがやと騒ぎ立てた。延暦寺では、僧たち三千人がそろって評議した結果、神輿に矢が刺され、下級の僧たちが殺され、たくさんの僧が傷を受けた事から、東坂本の山王権現・地主権現以下、講堂・根本中堂まですべての諸堂を一軒も残さずに焼き払って山に身を隠そうと*6言う事になった。そうすれば延暦寺の僧たちの申し出に対して、法皇のご配慮がなされるであろうと、延暦寺の上座の僧官たちはその詳細を僧たちに伝えようと山を登った。が、僧たちは既に動いており、上座の僧官たちを皆、比叡山から追い返してしまった。
 その当時はまだ左衛門府の長官であった大納言・平時忠卿が、延暦寺の僧たちの反乱を鎮める役の責任者になった。延暦寺の大講堂の庭では、東塔・西塔・横川の三塔の僧たちが会合を開き、時忠卿を拘引して「そいつの冠を打って落とし、その身体を縛って湖に沈めろ」などと評議していた。もう危害が及ぶと思われたその時、時忠卿は「しばらくの間、静かにしていただけないか。延暦寺の方々に申し上げる事がある」と言って、懐から小硯と畳んだ紙を取り出したかと思うと、何かを書いて僧たちに差し出した。開いて見るとそこには「僧たちが乱暴な悪行をするのは魔王の仕業だ。英明な帝王がお止になるのは薬師如来の加護である」と書かれていた。これを見て、僧たちは時忠卿を拘引する事をやめて、皆がその通りだと言って谷へ下りて宿坊へ入った。たった一枚の紙に書いた一句により、三塔の三千人の怒りを鎮め、公私に被る恥から逃れたとは、時忠卿はまことに立派であった。人々も「延暦寺の僧たちはただうるさく押しかけるばかりだと思ったが、物事の道理も承知していた」と言って、感心した。
 同月二十日、中納言・藤原忠親*7卿によって、加賀守の国司・師高がついにその職を免じられ、尾張井戸田へ流された。国司の代官・師経は禁獄された。また去る十三日には、神輿に矢を放った武士六人が入獄と決定されていた。その六人とは、左衛門尉・藤原正純、右衛門尉・藤原正季、左衛門尉・大江家兼、右衛門尉・大江家国、左兵衛尉・清原康家、右兵衛尉・清原康友で、皆、重盛殿に仕える侍であった。
 同年の四月二十八日の午後十時頃、樋口小路と富小路の交差点から出火した火は、東南から吹く激しい風によって広がり、京中が焼けた。車輪が巡るように激しく燃え上がる炎が、三町も五町も隔てて西北の方向に斜めに燃え広がり、恐ろしい事この上なかった。また具平親王*8の千種殿、菅原道真公の紅梅殿、橘逸勢*9のはい松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条の邸、左大臣藤原冬嗣殿の閑院殿、太政大臣藤原基経公の堀河殿を始めとして、古今の名所三十箇所以上、公卿の家十六箇所が焼けた。その他にも、数え切れないほどの殿上人・諸大夫の家が焼けた。最後には内裏にまで火の粉が吹きつけて、朱雀門を始めとする応田門・会昌門・大極殿・豊楽院*10・多くの役所と八つの官庁・朝所*11があっというまに灰と塵に化した。各家の日記、代々の文書、あらゆる宝物がそのままそっくり灰と塵になった。その損害額はどれ程になっただろうか。焼け死んだ人は数百人、牛馬に至ってはその数が分からない程である。これはただ事ではないので、山王権現の罰として、比叡山から下りてきた二、三千匹の大きな猿どもがそれぞれの手に松明を持って京中を焼いたのだと、夢に見る人もいた。
 大極殿が初めて焼けたのは、清和天皇の頃の貞観十八年で、よって翌年一月三日の陽成院*12即位式は豊楽院で行われた。元慶元年の四月九日に着工の儀式が行われて、翌年の十月八日にようやく完成した。が、後冷泉院*13の頃の天喜五年二月二十六日に、再び火事により焼けた。治暦四年八月十四日に着工の儀式が行われはしたが、作業を始める前に後冷泉院が亡くなられた。その後、後三条*14の頃の延久四年四月十五日に完成した時は、文人詩を献上し、楽人が舞楽を行い、天皇の即位をお祝いした。だが今はもう世も末になり国の力も衰えたため、この火事の後に再び作られる事はなかった。
―巻第一 終り―

元号天皇

平家物語 巻第一の時代背景

*1:左京区修学院にある天台宗の守護神

*2:東山区の八坂神社の旧称

*3:ちょうけん

*4:唐の貞観政要・君道の「人怨則神怒、神怒則災害必生」より

*5:宮中で文武百官が公事に着用する正服

*6:鎮護国家の祈祷を止めて、皇室に打撃を与えようという狙いから

*7:ただちか

*8:第62代・村上天皇の第七皇子

*9:平安初期の官人・能書家

*10:ぶらくいん:宮中の宴会場

*11:あいたんどころ:参議以上の会合の場所

*12:第57代の天皇

*13:第70代の天皇

*14:第71代の天皇