巻第一 清水寺*1炎上
このように南の僧たちに無礼な振る舞いをされた上は、北の延暦寺の僧たちも黙ってはいられないはずなのだが、何か思慮深く企む事があったのだろうか、一言も文句は言わなかった。天皇がお亡くなりになったせいで、心のない草木までもが悲しい色を帯びているというのに、とんでもないこの騒動に身分の高い者も低い者も気力を失って、あちこちへと皆去っていった。騒動の翌々日、七月二十九日の正午頃、延暦寺の僧たちが大勢で、比叡山から京都の町へ下りて来るという噂が伝わった。武士・検非違使が急いで比叡山の西南麓に赴いてこれを防ごうとしたが、僧たちは物ともせずに防御を押し破って乱入した。誰が言いはじめたのか分からないが、「後白河上皇は延暦寺の僧たちに命じて、平家を追い討つつもりだ」という噂が流れたので、兵士は皇居に参じて四方の詰所を警固した。平氏の者たちは皆、六波羅の邸に急いで集まった。後白河上皇も急いで六波羅の邸へお越しになった。その頃の清盛公はまだ大納言であったのだが、非常に恐れては騒がれた。清盛公の長男・重盛卿は「どうして今、そのような事が起こると言うのか」と皆を落ち着かせようとしたが、誰もが騒ぎたてるばかりだった。延暦寺の僧たちは六波羅の邸には近寄らず、なぜ攻めるのかも不確かな清水寺*2に押し寄せて、寺院も僧尼のための家屋も一軒残らず焼き払った。これが、去る葬送の夜の敗北の恨みを晴らすためだったと言うことだ。清水寺が南の興福寺の末寺であったせいだった。清水寺が焼けた明くる朝、北側が「おや、観音の力を念ずれば猛火の燃えたぎる穴も変じて池となりその難を逃れると言うのに*3、観音を本尊とする清水寺が焼けてしまったとはどういうことか」と書いた札を正門の前に立てると、次の日、南側は「観音の御利益は永遠で人の知恵では測り難いものであるから、この度の焼失も人の力ではどうすることもできないのだ*4」とそれに答える札を立てた。延暦寺の僧たちが比叡山へ戻り始めると、後白河上皇は六波羅の邸から皇居にお帰りになった。父の清盛公は留まったが、重盛卿は思うところがあったようで上皇にお供された。これはまだ、後白河上皇が延暦寺の僧たちに命じて平家を追い討とうとしているという噂を気にかけて警戒したためと聞く。重盛卿が上皇のお供から戻られた時、父の清盛公が「それにしても後白河上皇が外出なされるとは、非常に気になることだ。以前から平家をこらしめてやろうという考えを持っておられて、その旨を口外なさっていたからこそ、こういう噂が立ったのだろう。おまえも打ち解けてはいけない」と言うと、重盛卿は「そういう考えは絶対に態度にも言葉にも出してはいけません。人の注意をひくような言動であり、返って悪いことです。その事と関連しても、上皇のお考えに背かずに人々のために思いやりを尽くす努力をすれば、神仏のご加護があることでしょう。そして神仏のご加護がある以上、我が身の行く末を恐れる必要はありませんから」と言ってその場から離れた。これを聞いて清盛公は「重盛卿の態度は気味が悪いくらい落ち着いているなあ」と言った。
後白河上皇は皇居に戻られて後、上皇に親しく仕える近臣たちがたくさんいる前で「それにしても不思議な事を言い出した者がいるものだ。私は平家を討とうなどと毛頭も考えていないのに」とおっしゃった。そこに御所を取り仕切っている実力者で西光法師*5と言う者がいた。ちょうどその時、後白河上皇の近くにいたので「『天に口なし、人をもって言わせよ *6 』と言います。平家はまったくもって身分不相応に出過ぎた事をするので、天が処置を取ったのでしょう」と言った。そこにいた人々は「誰がどこで聞いているか分からないので、こういう事を言うのはよくない。恐ろしいことだ」と言い合った。