思考と行動の間の溝

 事実を書くことは難しい。少なくとも、私にとってはそうだった。
 ほんのささいな出来事を書くだけでも、感じもしなかった感情を取ってつけたように書いてしまう。そして結末には必ず、その出来事に何らかの意味を見出そうとし、陳腐な結論を書く。
 これが以前の私だ。何も感じなかったのなら「何も感じなかった」と書けばいい、ただそれだけのこともできなかった。ほぼ無意識に、反省することなく行動しておきながら、それを文章にするときになって、まるで思索して行動していたかのようなふりをする。こういう文章に出会ったとき、読み手は書き手の「見え」ばかりが目に付いて、不快を感じることと思う。これは日常の言動にも当てはまることだろう。
 読み手を不快にさせない文章には、書き手の気持ちが誇張されることなく表現されている。そこに現れているのは、書き手の真摯な生き方そのもののように思う。そういうものを読んでいると、自然と自分が書き手の気持ちに寄り添っていくような感覚を覚える。私はこういう類の文章が好きだ。
 当初は文章練習のために始めたことだったが、事実を書く努力をすることは、自分の行動を振り返るきっかけの一つになった。事実をありのまま書くことができないということは、自分の行動から目をそらせて生きているということではないのか。ペン先からぬらぬらと出てくる嘘の感情を目の当たりにして、そう考えた。
 書くことで自分を振り返りつつ過ごし、三年近くになる。私も少しはまともに事実を書くことができるようになったのだろうか。これは生き方に直結する問題である。過去の自分が招いた「思考と行動の間の溝」を埋めることは簡単な問題ではない。それを思い知らされる毎日でもある。だがペンは捨てないことに決めた。
「思索する事は行為する事で、行為する事は思索する事*1」、いつかはこうありたいと切に思う。

*1:志賀直哉小林秀雄初期文芸論集 (岩波文庫)−」で、小林秀雄志賀直哉を形容する中で用いた言葉