言葉2

自分の思いを心の中にひっそり持っていることと、それを言葉に表し、誰かに伝えようとすることとの違いはなにか。「言葉にしようがしまいが、私の考えはすでにあるのだからたいした違いではない」というのは、もっともらしい説ではある。が、そう決め付けてしまう前に、言葉が生れた理由に立ち返ってみることを勧める。

言葉は、先ず似せ易い意があって、生れたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。

実は、最初のもっともらしい説を固守していたのは私だった。今思えば、砂の城に閉じこもっていたようなものだ。
言葉にされない思いの行き場所はない。

*1は、生活され経験される言葉にしか興味を持たなかったし、言葉とは本来そういうものと確信していた。一人で生活するものはない。生活するとは人と交わる事である。無論、社会という言葉は彼の語彙にはなかったが、言葉の社会性は彼には深く見抜かれていた。歌は人に聞かすものである。人に言い聞かせでは止み難きものが歌である。

書くことは、私を砂の城から太陽の下へ引きずり出し、私の未熟さを露呈させた。そして何よりも、自分が書いたものの前で立ち止まり、耳を傾けてくれる誰かがいること、これは私への思いがけない贈り物になった。自分の思いを言葉に表すことで人と交わらなければ、決して受け取ることのできなかった贈り物である。私が「言葉の社会性」を実感したときだった。

言葉は相手あってのものだ。どれだけ厭世的に生きようと、言葉を捨てない限りこの現実の世界から逃れることはできない。どんな言葉であれ、誰かによって外に出された言葉を、人は理解しようと努力するではないか。それが共に「生活する」ことだ。
ひっそり心の中に持っていた思いを言葉にしたとき、それが人と人との交わりの新たな始まりになるだろう。

*引用はすべて、「言葉」新装版 考えるヒント (文春文庫) 小林秀雄 より