例えばある出来事について書く機会があったとする。どの場面を選んで文章にするか、頭を悩ませることが多い。細かいことまで書き連ねれば文章はいくらでも長くはなるが、全体の印象は間延びしてしまう。かといって短くしすぎると、単なるメモのようで無味乾燥である。
なぜ「目に見える」ように書けないのか。自分の凡庸が恨めしい。
ところで、志賀直哉がこんなことを言っている。

一体物を見る時、これを材料にしようと思って見るとかえって余計なものが見えてよくない。行動する時、殆ど無意識に見ていて頭に残っていた事だけを書く場合が僕は多い。これは材料になると思って、その事件を経験しつつ、よく見ようとすると、そのわざとらしさが気になって、かえって書きにくくなる。−−志賀直哉随筆集 (岩波文庫)より

志賀直哉ほど冷静な目を持った人でも、こんなことを思い返したことがあるのを知るのは面白い。思考と行動の隙間がないと形容された人からこぼれた人並らしいつぶやきである。

しかし実のところは、こうして自分を冷静に分析できることこそが、彼の優れた素質なのだろう。