今までは私は天ばかり見てあこがれていた。地のことを知らなかった。全く知らなかった。浅薄なるアイデアリストよ。今よりは己れ、地上の子たらん、獣のごとく地を這うことを屑(いさぎ)よしとせん、徒らに天上の星を望むものたらんよりは−−

これはモーパッサンの短編集に目覚めたときの田山花袋の言葉であるという。
著名な作家のあからさまな告白に、なにやら親近感を覚えてしまう。
理想を持つということは、健康な成長の過程で多くの人が経験することであろう。だが年を重ねるにつれて彼らは理想と現実との矛盾にもがき苦しむ。いずれ現実を受け入れられるようになる者もいる。矛盾すらも含んだものが現実だと知るからだ。
私にとっての「モーパッサンの短編集」も、やはり一冊の本だった。
優れた作品の現実性は実生活となんら変わらない影響力を持つ。
〈引用〉「私小説論」より(小林秀雄初期文芸論集 (岩波文庫) 岩波文庫