「これしかない」

 Yさんは、私が以前働いていたベーカリーの先輩で、私が入った二ヶ月後にその店を去った。というのも、もともと決まっていた修業期間を終えるYさんの代わりにその店に入ることになったのが私だった。一緒に働き、いろいろなことを教わったのはたった二ヶ月だったが、今でもYさんとは時々、連絡を取り合う仲である。Yさんは今、ご主人と二人のお子さんとアジアのある国で暮らしている。
 当時の私たちは若く、忙しい仕事の合間に、「いつか自分の店を持ちたい」など、よく将来の夢について話したものだった。その店を去った後もYさんは好きなお菓子作りの仕事を続けた。今はお菓子作り教室を開いている。去年、「クリスマスにブッシュドノエルを作るつもりだが、マロンクリームが見つからなくて」と何気なく話したところ、「栗と生クリームで手作りすると、市販のよりもおいしいものができる」と作り方を教えてくれた。Yさんは今でもやはり先輩である。
 お菓子作り教室を始めたことをYさんから聞いた時、Yさんが言った忘れられない言葉がある。「これしかないから」、Yさんはそう言った。
 本当に好きなこと、せずにはいられないことを知っている人は、どのような状況にあっても言い訳することなくそれを続ける。それをすることが、誰かに認められるためでも勝ち負けでもなく、もっと自分の深いところからでてくる欲求だと身を持って知っているのだ。
 Yさんと出会ったベーカリーをやめてからも、私はしばらくの間、料理関係の仕事を続けた。が、今はしていない。この先もすることはないだろう。パン作りや料理は、私にとって「これしかない」と言えるほどのものではなかった。今、私が日常生活に必要な分以上、料理に情熱を注いでいないのが何よりの証拠のように思う。だが私も、「これしかない」と言えるものをようやく知った。何度も離れては戻り、結局離れることのできなかったものだった。
 たまに思い出したように作るパンやケーキは、ほんの少しだけ私を後ろめたい気持ちにさせる。が、もうすぐクリスマス、今年はシュトーレンを焼こう。先ほど、ラム酒に漬け込むためのドライフルーツをたっぷり買い込んで来たところだ。


id:aquioさんとお話しする中で、思うところがあり、こうして書くに至りました。