巻第三 頼豪*1
白河院が在位の時、后となった関白・藤原師実殿*2の養女は賢子の中宮といって、天皇に深く愛された。天皇はこの中宮が皇子を身ごもる事を望み、その頃、祈祷の効験があると評判だった三井寺の高徳の僧・頼豪を呼んで、「この后が皇子を産むように祈祷せよ。願いが成就した暁には、望み通りの賞を与える」とおっしゃった。「簡単な事でございます」と言って、頼豪は三井寺に戻り、真心をつくして百日の祈祷をしたところ、百日目になる前に中宮は懐妊された。承保元年十二月十六日、無事にお産が終わり、誕生されたのは皇子であった。天皇は非常に感心なさり、三井寺の頼豪を呼び「お前の望みは何だ」と尋ねられた。これに対して、頼豪は三井寺に戒壇*3を建立したいとの旨を伝えた。天皇は「思ってもいなかった希望であるな。位を飛び越えて僧正になる事を望むものだとばかり思っていた。大体、誕生した皇子に皇位を継がせるのも、国内の安泰を思っての事である。それなのに今、お前の希望に答えたら、延暦寺は憤り世間が騒がしくなる。延暦寺と三井寺の間で戦*4が起こると、天台の仏法が滅ぶ事になるだろう」とおっしゃって、この望みを許されなかった。
頼豪は無念であると、三井寺に帰ってから、飲食を断って餓死しようとした。天皇はひどく驚かれて、その頃はまだ美作守であったと聞く太宰権帥・大江匡房*5卿を呼んで、「お前と頼豪とは師匠としての僧と檀家との関係である。三井寺に出向いて、説得してみよ」とおっしゃった。匡房は天皇の言葉通りに頼豪の宿坊へ向かい、天皇の命の趣旨を言い聞かせようとしたが、頼豪は煙が異常に立ち込める持仏堂に立てこもり、恐ろしい声で「天皇の言葉とは、一度出れば再びもとへ戻る事がない汗のように、取り消す事ができないものだということを思い知るがいい。これ程願っている事が聞き届けられないというのならば、私が祈る事で生まれた皇子を連れて、悪魔の住む世界へ行くつもりだ」と言うだけで、対面する事もできなかった。匡房は戻り、この事を天皇に伝えた。頼豪はやがて餓死し、天皇はどうすればいいかと動揺なされた。程なく、皇子は病気にかかり、いろいろな祈祷を行ったが、もはや助からないように思われた。錫杖を持った白髪の老僧が皇子の枕元に佇んでいるのが、人々の夢に現れ、幻にこの老僧が見える事もあった。恐ろしいなどという形容でも十分ではない。
そうしているうちに承暦元年*6八月六日、皇子は四歳で亡くなられた。これが敦文の親王である。天皇は非常に嘆かれた。その頃は円融房の僧都と呼ばれていたが、祈祷の効験があると評判だった天台座主である延暦寺の良真大僧正*7を内裏に呼んで、「どうすればいいか」と尋ねられると、円融房は「このような願いは、いつも我が比叡山延暦寺の力でこそ成就する事でございます。藤原師輔*8右大臣は慈恵大僧正*9と師匠・檀家の関係をむすばれたから、後に冷泉天皇となられた皇子が誕生なされたのです。簡単な事でございます」と答え、比叡山に帰った。山王大師に真心を込めて百日の祈祷を行うと、百日目になる前に中宮は懐妊され、承暦三年七月九日、無事にお産が終わり、皇子が誕生された。これが堀河天皇である。怨霊は昔も今も恐ろしいものである。今回、これだけめでたいお産であったため、大赦が行われたといっても、俊寛一人だけが赦免されなかったのは返す返すもかわいそうな事であった。
治承二年十二月八日、皇子は皇太子になられた。皇太子を補佐する役には重盛公*10、東宮坊の長官には頼盛卿*11がなったと聞く。