湖の朝

Great Blue Heron

 朝食までには時間があった。何かと準備に手間がかかる母を民宿に残して、私と姉は父に連れられて外へ出た。湖畔を散歩するつもりだった。
 真夏とはいえ、北東北の朝の空気は爽やかだ。晴れていたが太陽はまだ低く、空は白っぽい色をしていた。風がなく静かだ。三人の話す声がそこら中に響いているような気がして、誰からともなく無口になった。
 舗装道路をそれて木立の中を歩いた。湿った砂の感触が、昨夜の雷雨を思い出させた。

  前の晩は夕食のあと、山の方へ散歩に出た。幼い私は腹が満たされたせいでしばらく歩くうちに眠くなり、父に負ぶされて眠った。気が付いたときは民宿に戻っており、捕まえた数匹の蛍のことを母が珍しく興奮しながら話すのを半ば眠って聞いた。
「それでも昔よりかは大分少なくなりました」と開け放したドアの前を通りかかった民宿の老婆が目を細めて言った。そして突然、雷がきた。老婆は大げさなくらい慌てた様子で階下へ降りた。ほどなくして雨が屋根を打ち始めた。その間隔は瞬く間に短くなり、しまいにはつながったザアという音にしか聞こえなくなった。そしてピタリと止まった。次に鳴った雷はもう遠くへ行ってしまっていた。

 木立の切れ間から湖面が見えたので、私と姉は走って木立を抜け、湖へ向かった。父も走った。
 そこは小さな湾になっており、そのせいか水は濁っていた。一艘の小さな手漕ぎ舟が浜に舳先を乗り上げて止まっている。私は浜の濡れた砂に足跡をいくつもつけた。姉がやってきて、わざと私の足跡を踏んで自分の足跡をつけた。私はなんだか嫌な気持ちになり父のところへ駆けていった。
 父は舟のそばでタバコをふかしながら対岸の方へ目をやっていたが、ふと足元に横たわっていた四メートルほどの板を起こした。それからタバコをくわえたまま、両手で板の表面についた砂を払った。私は黙って父のすることを見ていた。
 父は更に、浜に打ち上げられた流木の中から少し大きなものを選んで水際に置いた。その上に、先ほどの四メートルの板を、三分の二ほど湖の中へ下ろして斜めになるように乗せた。タバコの火はすでに消して取り組んでいる。姉もやってきた。
 父は黙って板の端に乗る。すると水に浸かっていた方の板が持ち上がり、水しぶきが飛んだ。今度は勢いよく跳びあがって、板に着地した。ザブンと豪快に水が跳ね上がった。
「やらせて、やらせて」私と姉は先を争って板の上に乗った。どうにかこうにか三人で板に乗って、ザブザブと何度も水を跳ね上げてはワアワア大声を上げて騒いだ。
 少しすると、小学生くらいの男の子が二人やってきた。民宿の兄弟だ。近くに立ち止まってこちらを見ている。私たちは相変わらずザブザブやっては笑った。一緒に遊びたいのだろう、と私は少し得意な気持ちになった。
「返してほしいんです」出し抜けに兄の方が言った。私たちは足を止めて兄弟を見た。
「その板、ばあちゃんが見つけたもので、ばあちゃんのものだから。壊れたら困るんです」
 さっきまでの楽しい気分はどこかへ吹き飛んでしまった。昨晩の老婆の笑顔と、目の前の兄弟の言うこととがどうしても結びつかない。だが彼らが嘘を言っているようにも見えなかった。
 父も戸惑っているようだった。「少しくらいいいじゃない」父が笑って言っても、兄弟は断固として首を振った。
「そうか、わかったよ」父は私と姉を板から下ろした。

 それからどうやって民宿まで帰ったのかは覚えていない。母に「遅い」と小言を言われたことはなんとなく覚えている。
 
 今朝、河岸にしゃがんで足元のよどみをぼんやりと見ていたとき、ふと似たようなものをどこかで見たことがあるような気がした。それが二十年以上も前に訪れた湖の濁った湾であることに気付いたとき、糸をたぐるように上記の出来事が頭の中によみがえった。
 ただひとつ、あの板が民宿の老婆にとってどうして必要なものだったのかは、今も見当が付かないでいる。