徒然草を読む58

若葉

第七十一段

 名を聞くと、すぐにその人の容貌が想像できるような気がするが、実際に見てみると、前から思い描いていたような顔をしている人というのはいない。が、昔の物語を聞いていると、それを現在生きている誰かの家の辺りで起きたことのように思い描き、昔の人も、今知っている人の中から似た誰かを思い浮かべてしまうというのは、皆もやはりそうなのではないだろうか。
 また、何かの折に、たった今、人が言っている事も目に見える物も、このような出来事が以前にもあったのだがと、心の中で思われ、それがいつかは思い出す事ができなくとも、まさしくあったような気がするというのは、私だけなのであろうか。

つれづれなる時間とは

 一日の中で「徒然草」を読み解く時間、ほんの一時間ほどのことだが、これがいつの間にか私にとって自身を省みる大切な時間となっている。
 やるべき事に振り回された一日が終わりに差し掛かる頃、いつものように「徒然草」を手に取り、栞を挟んだページを開く。文字に目を走らせれば、すぐに静かな時間はやって来る。
 だが、そのほんの少しの時間ですら、日常の瑣事にとらわれて持つことのできない日がある。物理的にできないのではない、気持ちが「徒然草」のページを開くところまで行かないのである。思索することから逃げようとして、楽な方へと自分を許してしまうのだ。本当は、それこそが自分の首を絞めていることに気付いていながら。つくづく自分のつまらなさを思う時でもある。
 私にとっては、たった一時間でも日々途切れることなく持つのは難しいと感じる自身と向き合う時間、そういう時間を兼好は常に重ねていたのではないか。「徒然草」を読み続けるうちに感じたことだ。「徒然草」の根底を支えているのは、こういった兼好の生き方に他ならないような気がしている。